風呂上がりのおっさんの脱衣場ブログ。

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zoom RSS 因果と恥知らずの話

<<   作成日時 : 2015/04/19 00:51   >>

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このブログで書いてる記述 そもそもそれらの考察って
自分が納得したいから考えて書き残してる。
自分は精神的な成長が多分人並み以下なのかも。
だから齢20越えても中学、高校、親からの仕打ちを蒸し返してる。

まぁ最近色々納得出来てきたというか
確信してきたことがあって。
まぁだから考察の為に書き残す必要が無くなってきた。
まぁ出た結論少しずつでも書いていく。

今までの人生から見ると信じられんぐらい
最近ストレスのない日々を送ってる。
まぁ人との関わりほとんど無いから。
別にストレス無けりゃ幸せってわけじゃないけど。


放浪出てから楽しいのって最初の10ヶ月だけやったな。
やっぱ人間 進歩か変化が無いと駄目だわ。
一番でかかったのは10ヶ月目でのLLの件やな。
未だ引きずってるし。

4,5年前 いつか「生きてるだけで楽しい」って
思える時は来るのかね、って考えてて。
「当時はつまらなくても数年して思い返せば
 あの時はあの時で楽しかった」ではなく
「今が楽しい」と思える人生。短かったな。

ストレスは無いけど楽しくも無い。
正直生きてても面白くねぇー。
かといって死ぬ気も無いし。
自死の権利についてはとっくに5年前否定の結論出してるし
さらに追加で理由増えた。まぁその件は別の機会。

歳をとることで感じる不安も
よくよく思い返せば所詮 自分16か17の時に一旦
もういいやって思った人生の延長線だから
幸福の基準というかノルマを気に背負う必要は無い。
好きにやらせてもらう。

どうせ成功も幸福も望めそうに無いから
ずっと放浪生活で人生潰そうか。
20代後半で何も無かったら海外に放浪しようか、
とか考えてる。


まずい傾向にあるな、
「運動すればポジティブな思考になれる」って
過去に味は占めたからボクシング始めようか、
なんて思いつつまだ始めてない。
まぁ今年中には。








高校、親も含め 身近な不幸事や仕打ちでは
2年前のI組の件と 去年のLLの件。
それらに関して恨み言を書かなくなったのは
恨みが無くなったわけでは全く無く
「この世は因果が全て」って納得したから。

すげぇ客観的な見方で測ったら
どんな存在も物事も何らかの要因になり得るし
誰が幸福、不幸になれるために
世の中用意されたわけじゃない。

因果が報われたり応報されたりするとも限らない。
理不尽や不条理も含めての因果。
僕が不幸な目に合うのは、例としてLLの件では
持ち去られた原因は言うまでも無く、
その忌まわしい犯人に因果を返せないのは
僕の能力、価値、運なんかがそれに至らないから。
「条件さえ揃えば(見てろよ)…」って
気持ちだけは忘れたことは無い。


まともな人間目指しだしたの確か3、4年ぐらい前。
底辺高校で見てきた人間を引き合いにして
その連中よりマシな人間に、って。

正しさを突き止めようと双方、中立的な見方、なんかを
考えてた結果
その底辺高校の連中の方が出来た人間、って見方を
見つけてしまった。

I組に関しても そいつらの何が悪いか、
自分の落ち度は、なんて考えてみた結論。

客観的に見てどちらにも落ち度があるし
お互いニーズが合わないから互いに不必要な関係。
どちらの方が報われるべき、どちらが悪、って考え方も
客観的視点で省いてそこに残る結論は
単にソリの合わない者同士が絡んでしまって
結果僕が負けただけっていう。

なんせ逆に僕がI組側でも多分相手に同じことするから。
I組からすりゃ相手の方が悪いんだから
10万奪うぐらいじゃ当然の責任を負わせただけで
良心は痛まないし恥だとも思わない。


知らない方が幸せなことってやっぱあるんやな。
人間ってやっぱ敵が必要なんやな。
これなら考え無しにあのI組や高校を
悪者扱いしてる方が楽やったわ。




高校の連中の件。
「クズ」って言葉はもうなるだけ避けるが。
「恥知らず」「生き恥」とでも呼ぼうか。
自分もその連中と根本的な部分は変わらない、
連中と僕との違いって加害者か被害者ってのと
一応コミュニティ形成できる分向こうの方が上。
辛うじて僕に残ってたプライド、
連中と僕とは違うって言える要素は
人に迷惑かける行動を「恥」だと認識してる所。

まぁ最近はその認識すらも薄れてきた。

何事も捉え方次第、誰が救われるべきってのは
その個人にとって情や理解が深いかどうかって違い。
そんな認識になってきて。


昔テレビで見たけど
痴漢の冤罪かけられてようやく無罪になったけど
何年もの人生と仕事と家族を失った男のインタビューで
「お前のその一言で、って女に言ってやりたいです」
って答えてた。

この人が残りの人生を慎ましく誠実に生きたとして
それが何になるんだろうか。って。
「理不尽に不幸な目に合って全て失っても
 誠実さは忘れずに生きた男」なんて
美談にしてもらえる可能性はあるけど。
それに何の意味があるのかって。

この人が無差別に女性を襲った、なんてことになっても
経緯を知れば僕はこの人の人格責める事は出来ない。
ただ因果を果たしただけ。
(自分が第三者、客観的な見方だから責めない。
 自分が被害者、その関係者なら責めるけど。)

まぁこうまでなったら恥なんか意識してられんわな。

「裕福な環境に恵まれたにも関わらず
 無差別に被害者を出した」なんて奴と
受ける処遇と世間からの扱いは大差無いわけで。





中学の時なんとなく
「人の肉を食うようになったらもう人間として終わってるな」
なんて思ってたけど。

高校の頃
登山してる団体が遭難して
死んだ仲間の肉を食って生き延びた
って話をテレビで見た。

世間からは賛否両論と聞いて。
否定派には「じゃあ死ね」ってのか、なんて思ったり。

人の肉食うのも事情次第、好んで食うわけでないなら…
程度に考え方が変わった。



そんなこと考えながら「アシュラ」ってアニメ映画を見て。
 2年前の放浪時代にネカフェの広告見てずっと気になってた。
 銭ゲバの原作の人が手がけたこれまた暗くて深い話。

飢饉の時代を描いてて
綺麗な娘が人肉を食うか飢えて死ぬか、って選択を迫られて
「人肉を食う奴は犬畜生にも劣る」と教えられてきて
その理性が勝って結局食わずに美しい姿のまま死んだ。

綺麗じゃなくなっても責めようのない境遇で生きて
綺麗なまま死ぬのがそこまで大事なことか、っていう。



高校の連中も もし「実は親に虐待受けてて…」なんて
事実を知ったら僕の連中への見方は変わるんだろうか。
答えは出せてないけど。
第三者ならともかく直の被害者だから
「んなもん知るか」って思いそう。


「恥知らず」って本当に本人は恥としては認識してない。
充分な経緯が有るか無いかは別にして。

僕は自分の処遇に「弱かったからそうなっただけ」と、
処遇を与えてきた奴を「そうしたいからしただけ」と、
納得してる。


僕は言うならキリストみたいに
「自分がやる分には恥とし、他人からやられる分は許す」
なんて考えになれるほど心が強くない。

行動そのものに良いか悪いかと定めて
可能であれば自分もそれを行う権利(?)がある、
って考えないとやりきれない。
納得の視野を「物理的に起こり得る可能性、因果」
にまで広めても。


小学生の頃
「じゃあそれ(ルール)に則れば
 自分も同じことしていいんやな?」
なんて自分の都合第一に考えてる
自分もそうだったし周りもそうだった。
根本的な考え方は変わってないな。

変わったのはそのルールが
校則、法律、道徳、から 物理、因果に。
自分以外で行いを監視、判断する者が
親、先生、法、世間、から 無くなった。
(神が居る、なんて考える人も居るかもやけど)

因果を突き止めると法律なんかも
所詮は因果(不条理)の内にあるもの、って認識になったから。


まぁ、現時点で僕は何もやってないけど。まだ。
盗み、暴力など。
因果を果たすつもりでの悪行は。
まぁ心はもう仮にやっても恥だとはあんま思ってない。


自分が納得したいから色々考えてきたけど
納得しちゃいけないものもあったんだろうな。
被った他人の恥を納得せず
恥と認識したまま自分はそれを行わない
強い心で生きるのが一番いいんだろうな。


「負けた人間は救われることなく
 とっととこの世から死んでいけばいい」って思ってる。

他人に向けるわけじゃなく、自分に向けての認識。
自分でも正直とんでもないけど
このぐらいの認識でいないと自分の生き辛さに納得が出来ない。


ひどい仕打ちをしてきた相手、その経緯に何があるか。
相手は善意か悪意か 
それを教えた、促した者は誠実か不誠実か、
そいつを生んだ、育てた親は…なんて

因果が全てやな。
負けた人間の基準を一つ上げるとしたら
「色んな因果を向けられて背負いきれず跳ね返せず
 落ちていった人間」だと思う。



痴漢の冤罪の件で もしもその因果を果たしたら、
って場合の例、実際あるけど。
秋葉の無差別殺人とか。
(犯人はクズ親に理不尽な目に
 散々合わされてきたとか何とか)

事情を知ったら責められなくなった。
それなり理解のある(と自分で思う)第三者だから。
被害者なら責めてたけど。



被害を向けてきた奴への仇討ち、復讐、反撃なんかに
異議を申し立てるような人間は別として
(世間の一部はそれを偽善者という)


悪人を容認すべき、ってわけじゃない。
まぁ経緯、動機に至るかどうかは別にして
結局やるかどうかを決めるのは当人だから。

受けた因果の矛先を その根元に返せず
別の所に向けること自体
「社会的、調和」の観点から見て不正な事。


不幸を他人に巻き込むのも因果だし
それが知られると都合が悪いから隠すのも
知った第三者はそれを責めるも責めまいも
何らかの理由つけて正当化するも否定するも
全部 物理的な、都合の観点から見れば
因果とか自由。
ただ起こった事実だけは変わらないけど。


人間って結局は物理的に可能か、
都合が良いかを優先して動く。
権利があるかないか関係無しに行動するし
義務があってもやるかどうかは別
やったことでの結果に責任取りきらない。

まぁ ここまで これ以上は って
ある程度の折り合い付けはするけど。
まぁそんな感じ。

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