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zoom RSS 無理に許す必要は無い 中立的観点から見たいじめ被害

<<   作成日時 : 2016/01/20 00:48   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 7

前回 個人が許容する正論には限界がある、って話だけど。
まぁ価値観の相違や事故で起きる人間間のトラブルを防ぐには
突き詰めると、各々が自身の器量を
高めるように務めなければ、って思ってるんだけど。
まぁ例えば 前回も書いたけど
女性優遇の風潮ぐらいで
男はカリカリするな、って程度には。

けどまぁ、人は必要以上に
高い器量を持つ義務は無いとも思ってる。

ツイッターで前に回ってきた話なんだけど
「電車でお婆さんに席を譲ったら
 『お前(ガラが悪い?)みたいなクズでも
  席を譲る程度の常識は持ってるのね』とか言ってきた。
 親切にされた相手に礼も言えないお前の方がクズ。」

客観的視点から中立的観点の基に
お婆さん側の非道徳な発言の背景事情を推察すれば
いくらでも例を挙げられるけど。
「もしかしたらこんな事情があったのかも」みたいな。

まぁ、この投稿者(言われた側 主観的立場)にとって
そこまで理解しようとしてやる義理はない。
相手の人格をも否定する権利がある。

そもそも僕は 理解できない、されないってのは
伝達側の落ち度だと考えてるので。
その非道徳な発言に至るに
どのような背景事情、価値観形成、を経たのかは分からんが
それを統合しての その人の人格と責任だから。


相手を許す、理解する といった解釈が
そもそも何故 人に勧められるのか。
(建前としては)
自分の気を楽にするためだと思う。
それに務める方がむしろ心苦しいなら
する必要はない。
理解の範疇を超える、ってやつか。

 上記は事実 だと思ってるけど
 社会が 個人に勧める理由は
 社会の乱れを減らすためだと思ってる。
 許す、理解に限らず 道徳性の植え付け全般。




僕は信念のようなものは特に持ち合わせてはないけど
一応挙げるなら何らかの論題を語る上で
中立の立ち位置を意識してる。
どちらの味方にも敵にもならず、って感じ。

かといって
絶対に中立を取る、という風に拘ったりはしない。
一回り客観視すれば
「物事を主観的に捉えた考え方は絶対しない、
 客観的視点で見た上での中立的な見解でしか語らない」
っていう 中立に拘ることが結局
考え方が一方に偏ることになる。

融通、臨機応変と言えば聞こえはいいが
考え方の基盤というか これを貫くってのはない。
何より、そういうスタンスであることで発生するデメリットや
そこに付け込まれる、弱点が出来る、って見方もあるし。
結構そういう部分にやられてきたし。




まぁ、一応 例えを出すとして。
僕は 周りへの配慮もクソも無く
居間や寝てる僕の部屋で煙草吸いまくってた父のせいで
煙草に対してはほぼ悪いイメージしかない。
実際被害者だし。
主観的に 煙草、喫煙者の悪い所ばかりを拾って
ボロクソに悪く言いたい、ってのが本音。

それでも煙草の話を主題にする際は
喫煙者と嫌煙者 両者の事情や都合を拾って
相互理解に向けた案を出すことに務めるようにする。

他にも野球中継やクレームとかな。
僕は基本これらにはかなりネガティブな印象が多いし
一概に悪者扱いしたい所ではあるけど、
それでもそういった発言は控えるし
自分の中での偏見自体を抑えるように務めている。

そういう風にしないと無闇に敵を作りかねないし
(主張を勝手に聞いた どうでもいい他人ならまだしも
 いい関係を築いた方がいい 身近な人まで
 関係、印象を悪くする種を植えることになりかねない)

また、主観で都合ばかりを前面に推した主張ばかりしてると
自分の発言そのものの信憑性を落としてしまう。

 ちなみに客観的、中立としての発言を意識するのは
 あくまでこのブログ(、他)での記述の中であって
 主観で述べると決めた場所では 遠慮せず自由に書く。
 そことこことで発言に矛盾が発生するかもしれんが
 それを正当化する言い分としては 先述のそれってことで。



まぁ、あくまで自分の器量に収まる論題までであれば
基本的に中立を意識した考え方をする。
昔 日本に落とされた原爆による
被害、加害の話までなら許容範囲。
器量というより、中立として目指してる指針を
断片的な情報によって揺るがさない意識。


自分が関与した件であれば
客観的な意見を述べたつもりでも
立場的に 都合のよくなる発言は
正当なものとして見られなかったり、
そもそも自分自身が 相手側に対して頭にきてるしで
そんな相手に有利になる見解を
持ち出してやる気になれない。
だから元から主観的な意見を優先して述べる。
後は相手の出方次第か。


あとは快楽殺人事件だとかは
犯人側の事情を考える気にはならないし
(出来ないわけじゃないけど)

2ちゃんの話とか挙げる際は
結構主観で 一方を悪く言ったりする。
まぁあれって あくまで
投稿者(経験者)一方の観点でしかないし。
攻撃するにしても書き込んだ本人の
気になる部分だとかを重視。




人が いじめや戦争について語ること。
それをテーマにした作品だとか 授業だとか。
基本的には否定派、否定させる意図を基に描き、教えてる。
まぁそれが悪いとは言わんが。

僕はまぁ別の観点から見ていきたい。
元々僕には道徳が刷り込まれてるから
中立のつもりでも 偏った(否定的な)書き方を
してしまうかもだけど
その辺は読み手に許容、察してもらうしかない。




いじめ関連での 2ちゃんの書き込みなんだけど。

いじめは基本的に僕はまぁ する側とされる側、
どっちもある程度分かる。つもりではいる。
実際やられた側の方が多いけど。

昔いじめてた相手が、
大人になってもこちらを憎んでいる、という話。

同窓会で いじめてた相手がニヤニヤしながら
「殴っていい?」と言ってきたので
「いいよ。避けるけど」と答えて
相手のパンチを全部かわして(ボクシング経験あるらしい)
そのうち相手は涙目で奇声上げて駆けていった、と。

まぁ、どっちも分かるんだよなぁ…。一応。
僕も投稿者なら どうでもいい相手の為に
殴られたくないので 避けるか逃げるし。
心境的にはいじめられてた方へのシンパシーが大きいけど。
悔しかったろうな、って。

で、被害者側に肩入れしたい人が率先して意見してるのか
コメント欄は 投稿者への批判が結構多かった。

で、投稿者の弁解としては
「確かにいじめてたのは悪かったけど
 殴っていいか?とか駄目だろ。脅迫だろ。」
「じゃあ何?一生十字架背負って」
 罪悪感でも感じながら生きろっての?」

元々非常識、非道徳なことを相手にやったのは自分なんだから
自分が胸張って相手の常識の無さを咎めれる立場じゃないよな。
だからどうしろ、ってわけじゃないけど
ただ(因果を)認めろ って話。
今更無関係面は出来ない、まぁしても事実は変わらない。




中学生時代に 自殺を考えるレベルで
男子にいじめられて男性不信になって 女子高に行った女性。
その後大学行って そこで会う男性たちは
全然いじめてこないどころか優しくてびっくりした、と。

で、大学の友達の友達に、昔自分をいじめてた主犯が居て、
そいつが間接的に自分のことを知って、
謝りたい、と言ってきた、と。
過去のことにケリをつけるために 嫌だけど会ったら
真剣に謝るどころか ヘラヘラ懐かしんできて
「で、次はいつ会う?」とか言ってきて 
ショックで過呼吸になりそうになった、と。

自分がどれだけ辛かったかを訴えても
ヘラヘラしながら真面目に謝らずその後
大学で待ち伏せされたり 交際してほしいとか言われたり。

周りの友達まで 主犯の方に感化してしまったようで
「反省してるみたいだしそろそろ許してやったら?」
とか言ってくるようになった。
消えて欲しいとか誠心誠意の謝罪はもう求めてない、
関わらないで欲しいだけなのに。
苦しくて卒業までのあと一年耐えられるか分からない。
という悩み。書かれてたのは5年前。
どうなったんだろうなその後。


状況の好転、改善への案としては
女性がこの男を許せるだけの器量を持つこと、は
困難だし そんな義理はない。
まぁ、女性側の事情に肩入れしてくれる人、
理解者を身近に作ることが最善だろうな。

皮肉なことに、当人の要望よりも
第三者の客観的な意見の方が周囲へ力を持つこともある。
 だから 精神的器量が足りない人は
 第三者の同意、賛同者を募るのかも。



人は なんか 二面性のうちの一方に
見解を統合させたがる癖があるように見える。
善か?悪か?
許されるか?許されないか? 等。

個人でどう見るか、においても
大衆はどう見るべきか、においても。



子供の頃(価値観形成の疎い頃)は
好き嫌い、善悪、力量の判断を
分別出来なかった。少なくとも僕は。
他者を嫌いであれば、
その人格も悪く見たり 無能と判断したがるし
あからさまに嫌悪感を出した態度しか取らない。
「人間としては嫌いだが才能は認める」
みたいな見解が出来ない。

大人になってくるとその辺割り切れるようになってくる。
例えば僕は芸人では クワバタオハラが一番嫌いなんだけど
芸風、都合、私怨の基に嫌ってるので
プライベートや人格否定に繋げたりはしない。
もし仮に個人的に対面する機会が設けられたとしても
嫌悪感や先入観を省いて応対できる自信はある。
 むしろ人格を基に判断するならもっと別に嫌いな芸人は居る。
 誰だったかは忘れたけど。


前にも書いたけど。
同一の人間に対する 感謝と怨嗟の気持ちの割り切り。
ここに関しては良い、ここに関しては悪い、っていう。
見解の仕方として 善悪どちらか一方でしか取らない、
ってことは もうしない。



さて 見解を統合したがる癖についてだけど。
どうしてもどちらか一方に決断される時、ってのがある。
「考え方は個々の自由」では済まない。

例えば裁判の判決とか 食育での表決
(クラスで育てた動物を 食うか、生かすか)等。

その結果を 自分の都合のいい側にしたい、
ってのも当然。


歴史を振り返れば 違った考え方を持つだけで
裁かれた時代もあったみたいだし。
有名なガリレオ裁判や
ある国では神と自称することが罪とされたとか。
繋がる部分はあるんじゃないかと思う。
 一般と違った価値観を認めないというより
 社会を惑わす因子を排除したかったのか。

ガリレオは後に肯定されたが。
例えばオウム真理教は行動したから裁かれた、という
結果から見ると
社会と違えた価値観を広める人物の排除 この手段自体も
あながち間違ってはない と思う。
 (これはオウム否定派の僕の主観)

まぁ歴史を見ていくと 今ってかなり
表現が自由になった時代なんだな、と。





昔 友達と「言葉の使い方」について論争になった。
僕は「友達」を「知人」のカテゴリに含めた言葉として
友達を 知人と呼んだのだが
その友達は
「友達」と「知人」は別のもので それぞれ親しさが違う、
自分を「知人」と称されるのはショックだ と言った。

僕にとってはこういう(上記の)解釈であって他意は無い、
そして君はこちらの使い方を認めるべきだ、といった感じで
無理に説こうとした。

今に思う反省点は 相手が僕の言葉に拒絶反応を起こすなら
少なくとも相手との対話の中では 相手の使い方に合わせて
「友達」と「知人」は別物の言葉として使うべきだった。

正しいかどうかが問題じゃなく、相手が嫌なら、
こちらが無理に通すべき道理でないなら、
相手に合わせればいい。


物事を、自分がその考えを正しいって確信した上で
相手がそれを否定する理由も見越して
その”意見”までは譲ることが出来る、のであれば。
まぁ、相手の言い分をねじ伏せてまで
自分の主張を通そうとは思わなくなる。

考えに確信が無い場合、
自信が無いから賛同が必要になる。(例外の条件もあるが)
 裁判の例のように ”ただの考え方の違い”どころじゃ
 済まない場合は 論理を発揮して
 どうにか相手を否定しなきゃいけない場面になるけど。





ワンピースで筆者が語ってたバイキングの話。
他所の国を襲撃して殺したり金品や食べ物を略奪する、
だがそれは自分の国を豊かにするためだった という話。

この頃は善悪の概念が無かった頃の時代なんだろうか。
自分や仲間の為に外部から奪う、という
ただシンプルな話で 客観的な視点から
善だの悪だの称すること自体が不毛。

強いて言うなら、バイキングの略奪で
恩恵を受けている側から見れば善で、
奪われた側から見れば悪。
 ヴァイキングについて調べると 10世紀以降の存在で
 交易が主な生業で 海賊や略奪は
 むしろ例外だと書かれてるけど。




シマウマが 自身 あるいは親を
ライオンに食われたとして
もし 人並みにものを考えられるとして。
不都合をもたらすライオンを許さない、恨むにしろ。
起こった事実を一回り客観視し、
自然の摂理の概念を視野に入れて許容して
受け入れる、許すにしろ。
どう思うか自由。
それによって変わるのは 個々の認識、感情、あと
それによる 抵抗の強さ、反撃の可能性だとか。
全部含めて因果か。





僕が高校の頃 悪口とか言われてて(僕も言ったが)
なんか、
新しく、難しそうな言葉を知って、
喜んで使ってる感が滑稽で。
しかも言葉の使い方間違ってるし
そいつらにとっちゃ新規の言葉でも
僕にとっては既に知ってる言葉で。

滑稽、とはいえ 当時は精神的器量もそれほど無くて
まぁ普通に不愉快だったし
このバカどもが…って軽蔑してた。


まぁ、大人になれば それも成長、人格形成の過程に起こる
人の癖のような現象の一つに過ぎない、という風に
理解は出来るんだけど。

例えば 今 生意気な子供に同じように言われても
多分昔ほどの悔しさは無い。

もし今の観念、価値観を維持したまま
子供時代をやり直せたとして、
数年間ボロカスにいじめを受けても
精神的にはわりと平気でいられる自信がある。
(あくまで自信だが あとはまぁ内容次第)
まぁ、今なら子供のやることだという理解があるから。


まぁ、実際にそれをやられたのは
自分も同様 観念の出来上がってない時期であったし
その影響を受けやすい(傷つきやすい)間に
害を被ったのも事実(一概に被害者ぶるつもりは無いが)




シマウマは 食物連鎖という
客観的に肯定された事実の犠牲であり

いじめを受けた人は 人格形成の過程という
後に世間的に肯定される事実の中の犠牲であり

それぞれが主観を客観に 無理に合わせる義務は無い。
一般的見解に無理に統合することはない。

シマウマはライオンを許さなくていいし
バイキングに襲撃された村は 襲撃者を許さなくていいし
いじめ被害者は いじめられた相手を許さなくてもいい。



先程 名前を伏せずに挙げたことで察せられたかもだけど
僕はクワバタオハラを許してない。
一度でも誠意ある謝罪を受ければ許すって程度だけど。
相手は僕個人の許しなど必要とはしてないし
僕もそれを求めるような風情ではない。
著名人は 名を売る仕事である立場上
多種多様の解釈を持たれて然りだし
嫌悪に対し随一弁解する余裕も無いし必要性も無い。

僕は客観的事実や相手の都合を理解しているが
僕の主観としては 僕の都合が僕には第一で
特に相手を許す理由もないし、
だからどうするわけでもない。
相手も僕の許しを必要とはしてないし、
だからどうってわけでもない。
ただそれだけの話。




まぁ 謝罪があろうとどうあっても許さない、
(道徳の観点において)
越えてはいけない一線ってのはある。
人によりけりで誤差はあるだろうが

条件として例を挙げるなら
尊厳を踏みにじられた、
人生において多大な被害をもたらした、等。


 報復を目論む、などの意図は無く、
 ただ金輪際その人間と 道徳の観点の基での接触は経つ、
 という意味での 「許さない」である前提として

逆にその原因、加害者が対象に「許し」を求める場合もある。
けど大概その被害に相応する落とし前等はつけたりはしない。
まぁ大方 気まぐれか 都合か。
先述の女子大生待ち伏せ男なんかがいい例。

で、まぁ結局やられる側は
何らかの回避する術を身に付けなければ
その相手による不都合が持続する。

まぁ 道徳よりも因果が上回るというか
結局 要は 因果、か。







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大きな鍋の中に小さな具材を入れてるような思考

思考という概念に振り回されているなぁという印象があります

歳を取れば自ずとわかるのでしょうけれど、その若さがとても勿体無いと感じました
ふむふむ
2016/01/20 15:38
価値観の異なる人では当然誤解が生じるものだが伝達側の問題か受け取り側の問題か微妙な場合もある。

例えば、「昨日の夕食の豆腐は白かった」という発言に対して、「いやいや黄色い豆腐もある」というやつもいる。論理的に考えると、否定形というのは非常に強い言葉で、広範囲な事柄を一挙に否定することがある。

私の友人は、ネガティブな性格の人が多い。黙っていても気難しい表情で周囲に否定的な雰囲気を醸し出す。
長い時間共に過ごす気はしない。私の場合は、友達の数は多いが自分にとって心地よい人は少ない。

何とかならないかな?
あじさい
2016/01/21 19:52
同質の集団では誤解も少ないので争いが少ない。立場の異なる人同士では摩擦が起こり不調和音が始まる。
それを笑って見過ごすのか、カチンときて腹立てるのか。心の余裕度を「高い器量」というのか。
また、価値観、観念でしのげればそれに越したことはない。私は苦労しているが。
あじさい
2016/01/21 20:50
考え過ぎて、見なくても良い物を見てしまったり、気づかなくても良いものに囚われてしまったりすることがある

例えば、人生の取捨選択に優先順位を付ける時、今の自分が囚われている思考内容は、その他の出来事を押しのけてまで時間を割くべき事柄なのかと考えてみる

要するに、端的に言えば暇だからくだらない考えに時間を奪われるのではないか
必死に何かに取り組んでいればその様な暇は無いし、空き時間には休息を摂りたくなるだろう

休息を必要とする程の疲労もなく、時間を持て余せば、思考の渦に飲み込まれる
どうでもいい事を大きな問題だと捉えることもあるだろう
前しか向いていない時、人は後ろに流れ消える影に目も向けないものだ
ふむふむ
2016/01/23 01:32
少数であっても、自分の存在を喜んでくれる人が欲しい。また、すべてに人に拒絶される存在にはなりたくない。
持続は難しいかもしれないが、一時は承認される過去があれば、多少は納得できる。
ただし、初めから心の傷が深ければ、癒す時間も長くかかるのかもしれない。
生まれた時に持っていた能力とか運とか環境が違うので
他人と比較するのは難しいが。
あじさい
2016/01/23 23:03
ふむふむさん
>大きな鍋の中に小さな具材を入れてるような思考
的を得ています。
何かに夢中になったり、なんて状況を目指してみたほうがいい、とは思ってます。まだ何も始めてないけど。
あと、思考を止めるのはもう忙しくなるかボケるかしない限りは止めないと思います。「××をする人間を軽蔑するから自分は××をしない」「○○をしない人間を軽蔑してるから自分は○○に務める」といった考え方は視野を狭くするし生き辛くなるから止めた方がいい、と思ってるけど どうもやってしまってるような所があります。
僕に害をもたらした人間は基本的に「考えない人間」だったので。
おっさん
2016/01/28 23:11
あじさいさん
>伝達側の問題か受け取り側の問題か微妙な場合もある。
まぁそうですね。けどそれでも伝達側の責任を大きく見てます。確かに聞き手があからさまに理解力が足りないか、意図して曲解する場合もある。それをどう解釈するかは伝達側であり、その件に関しては受け取り側になる。
今度は受け取り側が「真面目に理解しようとしている人」に見せなかったという伝達力の不足の話になる。それで見切るのも伝達側(この件では受け取り側)の自由。一方にだけ都合のいい解釈なんてのは無いんですよ。

あと友人の話は 抽象的な例題を挙げられたら一応 言えることもあるかもだけど 統合しての感想ならまぁ僕からは何とも言えないです。
あれだ 筋トレしましょう。友人共に。
おっさん
2016/01/28 23:23

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無理に許す必要は無い 中立的観点から見たいじめ被害 風呂上がりのおっさんの脱衣場ブログ。/BIGLOBEウェブリブログ
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