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zoom RSS 論法というものを知った

<<   作成日時 : 2016/02/28 23:02   >>

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何か新しいことに気付いたばかりの頃は
まるで少数しか知りえない事実に気付いた、と感じたりする。
まぁ実際それは観念や価値観形成において全然途中のもので、
全然その先があったりするんだけど。

まぁ 慢心は毒、と心がけることやな。
今の考えが最頂点、みたいな。

それで慢心してる人間は
とっくにその先の観念に至ってる者からすれば
滑稽に見えるので。

「達観した気になって他者を見下すこと」の愚かさ。

まぁ、僕もあるけど。
自分が気にかけている事柄、得意なものに関して
至らない(と感じる)人間を見下す傾向。
僕の場合は観念とか真理究明の基に。
地元で関わってきた先人とかテレビを通して見た著名人とか。

メディアの言い分を真に受けやすい父。
一部の娯楽への偏見とか
他者の頭のおかしさ(理解に苦しむ言動)を引き合いに出して
自分をマシな人間として見せようとする所とか。
 僕も高校までそういうスタンスだったけど
 自分から理解していく方針に変えた。


高校の頃、先生方が全校生徒を体育館に集めて
説教する時間が急に設けられるのが週一であったんだけど。
先生の一人が
「自信が無いときに自分を励ましてくれるのは
 過去の頑張った自分だけだ」といった
その先日 武田哲也さんがテレビで言ってたことを
さも自分が考えたように語ってて。


他人の言い分で感化されてる状態に酔ってるだけ。
しかもそれで他人に高圧的になる。
他の人にも聞かせたくなるのは分かるけど
自分が考えたように言う必要はないよな。
「○○氏の引用なんだが」の一言加えれば済む話だし。


共感、理解出来ないわけじゃ無いけどな。
スピーチをする人間に憧れて 自分も何か言ってみたいが
自分でそんな言葉は思いつかないから流用する みたいな。

後生に語り継がれるような言葉はきっと
その人が散々考え抜いて行き着いた解釈、答えを
持ちうる言葉でどうにか形にしたものなんだろうし
言うときにそんな楽観的、気持ちのいい気分で言ってない。

まぁ 憧れなんだろうな。
(ツイッターとかでたまに見かける
 絵の盗作、無断利用の問題も
 盗作する人はこれに通づるものがあると思う。
 別に擁護する気は無いけど。)




先述の 得意分野としての「観念」だけど。
それが不得意な人も 不得意だと自覚し謙虚であれば
僕もここまで憤ることはないけど。
あとは子供だとかならしょうがない所もある。

「達観した気になって他者を見下す」ことを
三十路や四十路の大人がやってるから頭に来る。
なんせ僕も20余年はそれを被る側だった当事者だし。
なぜ齢相応の観念を形成してこなかった、と。

まぁ だいぶ前にも書いたけど。
個人がそれぞれ人生で与えられた時間を
何に使ったかの違いでしかないかもしれない、という。

価値観、観念形成の放棄、それの憤り、
それを言うなら一応僕も
勉学や地位の形成を散々放棄してきた身だし。
それも充分に学ぶ期間と環境が与えられたにも関わらず、だ。
ある意味 教育機関や親に対しての裏切り、冒涜行為ではある。
相手からすれば僕も充分 憤りの対象になる。

まぁ 視野を広く見れば人は
誰も誰をも責められなくなる。




本題に入るが。
自分が考えた、気付いた答えも
既に世間じゃ当たり前だったりする。

僕が出した
「何かを強く批判する、咎める、悪と称しるならば
 変わりになる答えを用意しなければならない」
という答えは既に
「代替案の提示」という似た概念が存在したり。

僕が「おめでたい教え」と名づけた概念は
既に「儒教悪」という似た概念があるらしいし。

僕が数年 長いこと考えて辿り着いた答えが
既に世間の一部じゃ当然だった、という。
まぁ、それでも自力で行き着いた事実は重要で
その分考えに自信を持てる。

僕が個人的に
「受け売りを容易く流用する人間」を蔑視してるので
自力で答えに行き着くことは大事にしてることだけど。
それが何よりも重要なこと、かというとそうではない。


去年の11月に「論法」という概念とこのサイトを知った。
http://ronri2.web.fc2.com/index.html

隠れた前提、立証責任、認知的不協和、言葉は入れ物…

聞き覚えのある主張とその組み解き方が
沢山書かれてあって。
僕の求めている答えが
ここに全部書いてあるのでは、とすら思った。

読む限り 論法ってのは 率先して使うより
むしろ真理究明、尊厳を重んじるなら使用を避けるべき手法。



で、問題だけど。
これは読んでもいいものなのか?っていう。
まぁ先述の通り自分でいずれ行き着けるかもしれない
いろんな答えがここに書かれてて。
真面目に眼を通すと今後 その過程を失うし
その答えは僕の中で「流用したもの」になり
「自力で行き着いたもの」ではなり得なくなる。

メリットとしては
それにかかる数ヶ月か数年が 数時間に収まる。
そこから次の答えに繋げていける。

まぁ、ここに書かれているのが答えという解釈は別にしても
他人の考え方も判断材料にした方がいい、という。

例えば絵描きとかもよく
「画力の進歩には他人の画風も参考にした方がいい。
 自分の中でばかり進めていたら案外進まないもの。
 他人の画風を真似ることで自分の個性が消えるという危惧は不毛。
 むしろその程度で消える個性なら消えても問題無い」
って感じの言い分をよく見かける。


もう3年近くは自力で考えたからそろそろ
答え合わせしてもいいか、
次のステップに進まねば、と思ってる所もある。

あとは読む時間を取れるかとかそんな感じで。




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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
世の中には悪い手本が多い。マスコミの報道も、良い内容もあるが間違っていることもある。アドバイスしてくれる人の大部分はまともに聞く必要もないが、少数の適切なアドバイザーの言葉を受け入れないのは残念である。
理想論では、正しいアドバイザーの言葉を信じて、自分の考えはしばらく保留にして従ってみるのがよかろう。最悪のパターンでは、悪い指導者に従って自分で考えないこと。
それならば、他人を信じないで自分の頭で考えたほうが良い。実際にはこれらの中間の形が多い。
あじさい
2016/02/29 08:40
啓蒙本を書いたことがある。
出版社に言われたことは、読者が満足すること。そのために、読んだときに賢くなった気がするように書くこと。他人に自慢できるような内容にすると、評判がよくなり売れる。
知識は得たときに、賢くなった気がする。このような例は多い。別に、慢心とかいうわけでない。たくさん本を読むと、賢くなった気がして他人を馬鹿にしたくなるが、これは普通のことである。

メディアの言い分も、大部分の人を持ち上げて人気取りが多いので、小市民を正義の味方として、少数派をたたくことが多い。

世の中でまともな意見は少なく、言いなりにならないほうが良いが、疑いすぎると大事な意見を見逃す。嘘と真実を見分けることは難しい。
あじさい
2016/02/29 17:24
全ての物事は複雑な多面性と多様性を持っているわけだから、一つの定規で測ろうとすれば破綻するのは避けられないよね

極端な話、戦争でさえどちらも正義の旗を掲げていて、各々を支持する人も現れる

一つの事柄について二つ以上の正しい答えが存在することもあれば、正しい答えを見付けられない事もある
人は神ではないのだから、真実を見出すことは出来ないと思う
真実の探求とは単に現実を言葉に置き換えるだけの行為であるはずなのに、人間は救いのある考えや教えを真実であると信じるからね
それはもう、極個人単位の宗教みたいなもんだよ
そして宗教で人が救われないことは歴史が証明している
ふむふむ
2016/03/01 07:28
>読んだときに賢くなった気がするように書くこと。
なった気にさせる、ってのがなんかもうあれですね。なるほど、って感じ。
>賢くなった気がして他人を馬鹿にしたくなるが、これは普通のことである。
まぁ、そういう普通の悪い癖を気付いて戒めることが大事だって僕は言いたいわけです。

>一つの定規で測ろうとすれば破綻するのは避けられないよね
まぁ複数の判断材料を基に物事を考えるようにしてます。
おっさん
2016/03/13 17:07

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