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zoom RSS 自分が欲しいのに得られず どうでもよさげに得ている人が居る といった感じの話。

<<   作成日時 : 2016/05/25 23:48   >>

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1月に 自分に権利がある、ということを見定めることを
テーマに記事を書いたけど。

自身の権利を度外視してまで
他人に優遇を譲る必要は無い。
人が優遇されることを是とするなら
その対象が自分でも問題ないはず。

今回は逆に 自分に権利が無い、
という部分を見定める話。
愚痴が多め。


大人になると、観念備わってくると、
我慢、諦め、妥協、が得意になってくる。


基本、道徳だけを重要視してる人間を
僕なりに二種類に分けると
「道徳においての正当性のみしか知らず、
 因果においての正当性を認知していない。」か
「道徳と因果、両方においての正当性を知った上で
 道徳を選択している、器量が現状耐えている」か。

前者はなんというか
自分の不都合が正当化されるような解釈を
ねじ伏せるために道徳を唱えることがある。
因果を否定するための道徳。


道徳ってのは大概 「弱者も強者同様に平等に扱われるべき」
ってもので 主にそれが成り立つと好都合な「弱者」が唱える。
(弱者と言う言葉にネガティブイメージを込めてではなく
 件において結果的に不利な状況にある人間を
 ひとまず「弱者」と形容する。)



強者が弱者より優遇されるべき、っていう
弱肉強食が当然、ってのが
基本的に 因果の観点においての正当性であり
主に それで好都合な「強者」が唱える。

何が正しいかというより 結局は両方とも
自分に都合がいい方を主張している、
誰しもが納得できる平等ってのは無い。


徒競走で 速い子も遅い子も全員1位って扱う
小学校があるって聞いたことあるけど。
能力がある、結果を出した者、(ましてや努力した者)が
正当に評価されない、という ある種の不平等を生んでる。

僕は元々妄信的に道徳を信じてた派だったけど
今では因果の法則を重要視するようにしてる。

まぁ、例えばプロ野球選手になるのは
野球が好きな人間、なりたい気持ちが高い人より
能力がある、結果を出した人間が選ばれるべきだと思ってる。





無条件に道徳を妄信してる人は
感情や都合と 権利を履き違えたり、
感情や都合が 権利に結びつくものだと
思ってしまう場合がある。

「年寄り」だから バスの席は譲られて当然だとか
「子持ち」だから 禁煙席は譲られて当然だとか。




このブログ読んでる人向けに
この世の因果をどれだけ受け入れられるか、をテストする
問いかけを考えたんだけど。

「自分があるものを欲しくても 得られず、
 他人がそれを得られた、という状況に
 精神がどれほど耐えられるか」

もっと条件を足して難易度を上げるなら
自分はそれを得る可能性を上げるために
金や時間を割いたが、
他人はそれに何も支払わず 偶然人から貰った。
・・・とか。
イメージできる人には悔しさは分かってもらえると思うけど。


仕方が無いんだよな。
世の中は誰の為にあるべきってわけではない。
自分が10枚買ったクジが全て外れて
他人が偶然貰ったクジ1枚が当選したなら
賞品を貰う権利はその人にある。



株を落とすことを覚悟で私怨をぶちまけるけど
昔 WHFってイベントのブースの一つで、
ポケモンカードで研究員と対戦しよう、ってのがあって
参加すると特別なカードが一枚、
さらに勝利すると賞品のカードがさらに一枚もらえる。

僕はこのイベントの為に
わるいレアコイル、わるいマルマインをベースにした
カードデッキを前々から考察して組んでたんだけど
当日、なんか整理券が無いと参加できないって話で。
目の前で参加してる女の子が使ってるのはどうみても
スターターパックのフシギバナEXデッキで。

前々から楽しみにしてて戦略練って
デッキ作った僕が参加できなくて
買ってすぐ遊べるタイプの構築済みスターターパックを
使ってる女の子が参加できる、っていうね。
そもそも整理券配布制って聞いてなかったし。

まぁ、背後には色々事情があるんろうけどな。
予想以上に参加者が来て 制限かけるしかなかったとか。
その子の参加意欲はどうあろうと
僕より早くから並んで権利を得たのは事実だし。




もう一つ挙げると 中学の頃の同じ班で
友達的な奴(以下:T)がある朝
バルーンファイトってファミコンのゲームの
主人公の1P,2Pのキーホルダーを
ゲーセンで当てたと言い 見せてきて。
当時僕は任天堂、レトロゲームがマイブームだったし
すげぇ、いいな って言ってたら
じゃあ片方あとでやるわって言われて。
楽しみにしてたんだが。

その後同じ班の他の3人 女子2人男1人が来て
「うわーかわいい!」「マリオやん!」(←違う)
ってちやほやしてて
Tが「これおっさんにやるん」って言ったら
「えーウチも欲しいー」っていう女子。
そしたらTは「あーじゃあそっちにやるわ」と。

は!? ってなって。

4人でジャンケンして勝った奴が貰うって話になって。
まぁ参加したけど負けて
その女子がもらうことになって。

元々僕が貰う話だったのに 後から来た奴
しかもそれがマリオかそうじゃないかの
区別も付かんような奴が貰うっていうね。
しかもその女子 僕の嫌いな奴だし。


まぁ、僕に権利は無いからな。
誰にやるかってのは 持ち主のTが決めることで。
実質何も失ってなく プラマイゼロだし。
まぁ 上げて 叩き落とされた感覚はある。
 伝わるかなコレ。

その後ふて寝してたら
「なんか可哀想やない?
 元々おっさんがもらうはずやったのに」って
3人のうちの男子の会話が聞こえてきて。

その後その男子が
「これおっさんにあげるって」って感じで
最終的に僕にくれた。


酷い仕打ちはされたけど ギリギリ
同情、懸念の意を僕に向けてくれたって事実には感謝やな。
ちなみにそのバルーンファイトの主人公は
今でも実家のゲームグッズ用の箱に保管してある。
その女子が持っててもどうせ失くしてたよきっと。


まぁ人生で こういう現象、
仕打ちは起こりうる、と学ばせてもらった。
落ち度を自分から見出すなら
そのTがあまり筋の通った人間ではないことは
普段の接触から何となく窺え知れるし
こういう展開も予想は出来なくはなかったはず、とか。



こういうことが何度か起きると
権利とか 理不尽とかその境目を意識して考えたりする。
そしてその感覚に慣れてくる。

期待しなくなる、と言えば聞こえは悪いが。
我慢を知る、自分の権利の行き届く範囲を見定める、という。
きっと重要なことなんだろうな。

たまに2ちゃんまとめなんかで
「キチママ」「クレクレ」「乞食」なんて呼ばれる人。
人のものを欲しがったり 無闇にごねて
自分の権利を主張して得ようとしたり。
 僕も理屈こねて ごねて人のものを欲しがったり
 してしまったことはある。

こういう人達ってもしかしたら
我慢、権利の見定めという 踏ん切りをつけたりする
そのきっかけの無いまま過ごしてきてしまった
人間の延長線上なのでは、と思った。





道徳より因果を重視するようになったら
理不尽に慣れるようになった。
というか因果の観点からすると
理不尽という概念そのものがあまり意味を持たない。


道徳の観点で見るとな。例えば
当て付けのような言い回しになってしまうが。
金持ってる奴は コレクション目当てだとか
突発的に欲しいと思っただけで買って
高価なゲーム機本体を同じもの複数所持して
結局使わないまま放置したり、なんて人もいるみたいだけど。

僕は新色出るたびに買うか悩んで
もっと好みのが出るかも・・・って待って
ようやく貯めた金で買った3DSLL
これから使っていくつもりでいたのに盗まれたりな。

「自分だけが不幸と思うな」みたいな
”分かったつもり”の奴の説教じみた意見が嫌だから
それを言われるような隙を与えないように
普段こういう発言はしないけど。

正直 なんでよりによって自分が・・・って思うわ。
ゲーム機を破壊したり天ぷらにしたりして
動画に上げてるような奴から盗めばいいだろって。
僕の方が100倍大事に使うわって。


「人間的価値」や「発言力」を築かずに
自分の不都合を 道徳的観点から世間に吐露することが
どれだけ不毛かって知ってるつもりだから
シビアな因果の観点を自分に刷り込ませたけど。


因果の観点から見れば
金(権利)をあり余せてる奴は 多くを得て当然。
盗まれたのは 不誠実な人間の目前で僕が隙を生んだから。
っていう それだけのことだと納得できる。

権利は誰にもある、が 保障はされてない。




これが権利の行き届く範囲は
色んな意味で 限界がある、って話で。

また、自分自身が
「他人にとって喉から手が出るほど欲しいものを
 興味無さげに持ち合わせている立場」である可能性がある。



去年の8月とか今年の1月とかにこんな話書いたけど。
幸福や処遇は あって当然になると
重要性に気付かなくなる、とか。
意識を向けて その存在に気付けるのだが
そのきっかけは 比較対象を見つけることだったりとか。

まぁ、僕は人生に結構興醒めして
もういいやって感覚で生きてたりするんだけど。

五体満足で健康体を持ち合わせているのに、っていう所がある。
そこに気付けるきっかけはまぁ それが無い人の存在。
その人達は僕以上に 生という概念を
重要視しているかも、っていう。

まぁこれは極端な例だが。
自分自身だって 持たざる者、得られなかった者からすれば
充分に妬み、羨みの対象になり得る。


「自分が適当に生きた今日は
 だれかが生きられなかった明日」とか歌あったけど。

だから別にそこを重要視すべきってわけじゃないが。
「あぁ、言われてみればそうだ 大事にしよう」とも
「いや知らねぇよ・・・」とも
好きなように解釈する自由がある。

まぁ 物事次第で
自分に有効に使える解釈を見極めて
選べるようになった方が得。
不要な思想は程々にし切り捨て、
重要そうなら 重視して考察してみる、みたいな。


まぁそんな感じで。




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内 容 ニックネーム/日時
思い通りにならないのが世の中の常である。資本主義社会では損得計算が重視される。大部分の場合、自分の徳は他人の損であることが多い。利の奪い合いが常である。道徳は建前の話であり実質が損得であれば、主催者がイベント運営では、大多数意見の尊重という観点から、少数の不利益者は切り捨て。個人が舞台のわき役であれば、主役の都合で(わき役にとって)理不尽に扱われる。解釈とはごまかす言い訳、嘘で固めて身を守る鎧である一面もある。
あじさい
2016/05/26 07:23
自分が優遇されている時には発生しない疑問や考察に本当の意味での価値はない
ふむふむ
2016/05/27 00:41
優遇されている人にとっては既得権ともいえる。歴史上の争いの多くが既得権の奪い合いである。道徳の多くは、上の立場の人(優遇された既得権者)がその権利を保つ言い分である。既得権を奪う側は革命とか反乱といわれる。
今の日本では子供、女性、老人が優遇されていることが多い。男性には選択肢が少なく、社会で稼ぐことが当然のように要求される略奪される側になる。
優遇される側の人間が略奪される側に回ると一挙に不平不満が出てくるのではないだろうか。
あじさい
2016/05/27 07:04
視野の狭い多面性を、「多面性がある」と、表現しても良いものか

と、いう話と似たようなものだと思う
生まれ落ちた性別に不満を並べたところでどうすると言うのか
結局時代という名の他人が変えてくれるのを待つだけだろうに
そんな中で多面性を持って考えようという時点で多面性が無いと思う
ふむふむ
2016/05/28 17:47

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