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zoom RSS 発言の本意の本質

<<   作成日時 : 2015/10/24 22:35   >>

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前回I組についてのコメントを貰ったけど
ぼちぼちI組についてまた記述したい事柄が沢山あるけど
その前に前提として明言しておかねばならない
僕の考え方として記述する必要がある事柄も多くて。
悪いけど当分後回しにします。
その時コメント返しを兼ねてまとめるので。



いつも複数の記述を同時進行で書いてるんだけど
この二件がなんか特に関連性が強かったので
まとめて上げる。

人の発言の本意を見抜くこと、の続きというか。
半端な知識や心情で 本意を捻じ曲げて主張するというか
それ以前に その本意自体を形成するに到って
半端な知識や心情がねじ込まれた経緯があるのではないかと。




最近の記述で言いたいことを一つ要約して挙げるとすると
真に道徳的な人間は存在しない、ってこと。
正しさとは”都合”だとはよく言ったもので。

僕がよく上げてる相対する二つの概念。
道徳と因果。
 建前としては相対してはいるけど、
 実際は因果の方が上に位置する。
 因果は道徳も吸収するから。

道徳の方は 「こうあるべき」って話で
答えが何通りもある。一つに限らない。

因果の方は 「ただそうあるだけ」っていう事実そのもので
答えは突き詰めると一つ。


キリスト神話で
大衆が罪人の女に石を投げつけてて、キリストが
自分が潔白だと思える者のみ石を投げよ、と言ったら
投げる人は居なくなったって話。
誰もが捉え方次第じゃ罪人になりうるのだから
誰も人を責めるべきではない。
これが道徳。

罪人には石を投げる、
逆に自分が罪人として槍玉に上げられた場合も
同様に石を投げられる。
それで構わない、ってのが因果。

まぁ、罪人を見るや石を投げて、
自分が罪人とならば道徳を唱えて身を守ろうとする、
状況、都合次第で主張を変える。
これもまぁ因果。



僕は何か 信念というか
これが絶対だって考え方は特に持ち合わせてない。
まぁただ一つだけ、因果だけは絶対だと信じてる。
因果こそが真理。

人が何かを信じるってのは、大方
自分を救ってくれる宗教だとか
行動方針を決める正義だとか。
何にせよ 自分にとって都合のいい概念。

因果は自分に都合がいいとは限らない。
むしろ人を救うことの方が少ない。
だからこそ真理だと確信できる。


こうだ!と強く主張する他人の言い分を
聞くにあたっての見方。判断の仕方。
道徳を主軸として正義を唱えるにしても
それが絶対正しいと本人は思ってるか、
(確信とも妄信とも言う)
また、ひとまわり客観視すれば数ある考え方のうちの
一つに過ぎないという事実を理解した上での行動か、で
(自分の賛同する正義は様々な捉え方のうちの
 ひとつに過ぎないと理解してはいるし
 猜疑心が無いわけではないが
 人の意見を変えようとする責任のある立場上
 方針を指し示す必要があるみたいな)
その人間、主張の見え方は変わる。




ーーー



僕が真理を求めるにあたって そのきっかけというか
最初に考え出したことは
(善良としての)正しさとは何か、ってのと
友達とは何か、ってこと。

交友関係を築く努力を怠った僕には
そのことに関して特に非難されたり馬鹿にされたり、と
人一倍されてきた。
まぁそれが大きな起因。

まぁ、一応その事柄自体への答えは出したけど。
人は風潮を武器に人を責める癖がある。
友達の少ないことを責めるのは、
この悪癖のうちの一つに過ぎない。

人間の価値観は千差万別だけど
社会に組み込まれている以上、
最低でもこれは良い、悪いと
共通する感覚がある。

これが良いと一般的に浸透してる以上、
その面で劣ってる、ってことで。
まぁ、武器にするのに最適だから。
「痛いところを突く」ってこと。

例え気にしてない素振りをしようと
心境的に 気分を害する、
結果 相手の意図通りになってしまうし。
まぁ本当にそれを気にしてないにしても
世間はその人がそれを気にするように 変えようとする。
まぁ、一般からズレた感覚の人間ってのは
あんまり良くは見えない。
迷惑、邪魔とすら思う。

まぁ、どっち側としても理解できる。
ズレてる感覚の方も それを合わせようとさせる方も。


まぁ、僕が友達が居ないことが基本的に劣ってることは認める。
その点で責める側の人格について どうこう言うのも
極力自分がそこを満たしてからやな。
責める側(友達が多い人間)の人格の悪さが
自分が友達増やす努力を怠る理由にはならない。





で、こないだ流れてきたツイート。
うろ覚えだけど。
「話してる人はみんな友達、って言う人が居た。
 私は普段 友達と知人は区別してて考えてるから
 その人の言葉は目からうろこだった。
 こんな風に区別しようという考えが
 友達が少ない自分、にしてたのかもしれない。」

といった。
まぁ、自分と価値観が違う人間の言葉で
そういう捉え方があるのかと関心した、って話。

この、「話した人はみんな友達」って言葉に既視感を覚えた。
何故ならこれ、過去に僕に対して
上記の事柄で非難をしてきた人間の一人の言葉だったから。
むしろ「僕が友達とは何か?」と
考え出した原因の半分近くはこいつにある。(半分は親)
まぁ、高校時代のネット友達なんだけど。


ネッ友(以下 Pと呼ぶ)の発言。
・口論中 脈略もなく
 「君はそんなんだから、友達も
  ネット友達も増えないんじゃない?」
・「俺は友達が腐るほどいる」という失言。
  指摘すると
 「細かいこと気にすんな」と撤回もしない。
・「話した人はみんな友達だろう。
  友達じゃない普通の関係とか、勝手に言葉作るな」
他にもいっぱいあるけど今回は彼を糾弾する場ではないので。

言い分から推察した彼のイメージ
・友達が多いのはステータスだと思ってる。
・身近な人間を勝手に友達だと思ってるので
 自分は友達が多いと思っている。



で、先ほどのツイートについて。
感心することじゃないだろう!と。
すぐに これを反論、否定するにあたって
説得力のある論理を述べるにはどう言えば良いか、
と考えようとしたけど。


まぁ、よく考えたら
どんな考え、価値観を持とうがその人の自由なわけで。
それなら否定意見を述べるのも自由になるが。
そもそもなぜ否定したい、と思ったのか。
元ネッ友のPにその観点で馬鹿にされたからだった。

考え方や言葉が問題なんじゃなく、
その価値観を基に人を非難、中傷しようとすることが
問題なんじゃないか、と。


思えばPは自分と価値観の違う意見に
やたら攻撃的になる癖があった。
自分と違う価値観を許容できない、ってことか。
前回、「価値観への主導権」で書いたけど。
自分の考え方に論理的か心情的な自信があるかどうか。
彼はそれが足りなかったのかもな。

まぁ当時高校生だったし。
違う価値観を許容することが難しい時期。
 まぁそれとは別にむかつくことはあるけど。
 彼は やるならとことんやる、ではなく
 なんか一方的に言いたいこと言って
 話を占めようする癖が見えた。


まぁ要するに、
言葉、考え方は問題ではなく
発言する立場や意図や手法が問題。

あぁ、問題はそこだったか。と
Pの発言で ずっとむかついてて。
7年近く経った最近ようやっと答えを出せた。


よくある名言。
「言葉を信じるな。
 言葉のもつ意味を信じろ。」っての。
こういうことなのかな、と理解した。


 ちなみに言っておくと 理解する、ってのは。
 主張する側の考え方などを完全に共感することじゃなく
 その理を自分なりに解釈できる、って意味で使う。
 主張側の本意と異なってようと関係ない。
 自分が解釈すること、分かったつもりになれるために
 論理を組み立てることが第一。
 主張者側との本意と、自分の解釈との
 誤差を縮めることは二の次。



例題をいくつか挙げると

流行に乗る者、拒む者
どちらかが もう片方を非難、卑下する言い分。
「流行に後れてる」「すぐに流行に乗りたがる」等。
どっちが正しいか、が問題じゃなく
自分と立ち位置の異なる相手に対しての悪意。
まぁ、これを完全に無くせ、ってのも息苦しくなるし。
バランスやな。


「女性は優遇されるべき」という考え方。
これを言うのが 男性か女性か、で
見え方はかなり違ってくる。

男性が言えば、都合の悪い立場だから
真摯に平等を目指しているように見えるし
女性が言えば、都合の良い立場だから
自分の生きやすい社会を目指してるように見える。
もちろんこれが全てではないが
どうしても多少なりそういう見え方は出来てしまう。

まぁ、その本意はどうあれ、
自分にとって都合のよくなる意見を
自分のために言っているのではない、と
認めさせることは難しい。

 かといって女性側はその自分の主張が
 都合の為に言っているわけではない、と表明するために
 性転換手術受けたり、とかするのは合理的じゃない。
 仮にそうまでして 都合でなく公平のための主張であると
 弁明したところで 一人分の発言力にしかならない。
 リスクが大きいわりに得るものが少ない。
 まぁ、その事実が報じられたりして世間に認めさせて
 1000人並の発言力を持つことが出来たり、
 なんてこともあるかもしれん。




昔回ってきたツイート。うろ覚えだけど

「描いた絵を悪く言うな、なんて言うけど
 感性の合う仲間内だけで褒めあってるだけじゃ
 成長しないだろ。」
って言葉。

どういう立場の人間が、どういう意図で言うかやな。

まず真っ先に想像するのが
絵を描きもしない人間が、他人の作品を酷評したい、
ただしその行為を非難されたくない、って印象。

まぁあるいは
向上心を持って絵を描く人間の憤りかもしれない。
好評だけでなく酷評にも耳を傾けるべきだと。
成長の為に。


まぁ、見極める上で肝心なのはその言葉だけじゃなく
それを発言する人間、その意図も含めて。
ということ。


 自分のためではなく 相手の為にあえて
 真理や本意からズラした考え方を話す例もあるけど。
 その辺はまぁ別の機会。

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内 容 ニックネーム/日時
正義の定義であるが、辞書によると正しい道理。
私の解釈では、ある集団の利益なることがその集団の正義。
日本という枠組みでは、日本の国益。
会社の正義とはその会社への利益貢献。
その集団では、メンバーへの強制力も伴う。
同じ方向に向けて他の意見を封じ込めることもある。

友達の定義は、互いにギブアンドテークの関係になって
一緒にいると互いにハッピーで付き合いを深める関係。
そもそも人間関係は、接近するか離れるか二者択一な関係が重要。
依存関係とか従属関係は友達ではないと思う。
また、リアルなことも必要条件かと思う。
フェイスブックの仲間は友人ではないかと思う。
(あくまで自分の見方)
あじさい
2015/10/25 21:42
集団の利益が正義ってのはまぁそうですね。
言い換えるなら都合。
村から1人生贄を出さないと雨が作物が絶える、って状況で 生贄以外が生贄となる人間を犠牲にしようとするのも都合だし 生贄本人にとっては死が嫌で逃げたりするとしてもそれもまた都合。

>フェイスブックの友達〜
友達という概念に趣を置いて考えてた頃は僕も似たようなことを考えたことがあります。
今ではそれほど趣深いものとしては見てないです。
SNSの方は「友達」とは違う「ネット友達」として解釈してます。付き合いが深まればそれが友達になることもあるかも。
おっさん
2015/10/27 20:08

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