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zoom RSS 表現者と批評者との感覚の差異と 相手を差別者に仕立て上げる手法

<<   作成日時 : 2017/03/05 14:16   >>

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前回のサウスパークの話は
劇中に込められていたメッセージを引用したかったんだけど
ストーリー内での論争についての自身の立ち位置について
書き忘れてた。

旗と黒人差別問題。
僕があの街の住人ならどちらを支持するか?って。

街の住人の殆どは中立、というか
どうでもいいような感想を述べてた。
「伝統も大事だけど差別も良くないよね」っていう。
黒人シェフは「みんなこれだ」って呆れてたけど
僕も中立、傍観の立ち位置になると思う。


どちらかに肩入れする必要があったら
「変える派」に付く。
共通思想として定める物ってのは時代相応に
臨機応変に変えていくべきだって思うし。

けど 作り手にとって
「作ったものが後世の都合によって勝手に改変される」
ことの不満も分かる。

まぁ、最良の手段としては、賛同者を募って
市長に抗議して「旗のデザイン」を定めることよりも。
相対する相手にこちら側の都合、背景事情を話し
妥協点を見つける、納得させることだと思う。

その納得させる、ってのが一番難しいんだろうけど。

作中じゃそれぞれの支持者が1人ずつ(+数人程度)っていう
規模だからまだ和解の可能性は見えるけど
現実じゃあ数百、数千人規模だったりする。





実際の問題って大概
理解できないか 納得させてないから だよな。

面白がって子供を殺して改心してもない奴が釈放されたり
何百人もの死者を出した人間が未だ死刑にならず生きてる、とか。

なぜ問題視されるか、ってのは。
実は「相応の報いを受けてないから」ってのは 思想の一つで
「国民を納得させてないから」がそもそもの問題だと思う。

国から 国民の猜疑心を
後回しにされる、保留、度外視されるってのは
それによって 相応の不都合なことが起こらないから。
暴動やテロが起きたりするわけでもない。
まぁ端的に言えば 舐められてるのかもな。






人間の意見を観察すると
「個の意見」か「団体の意見」か、
「強者の横暴」か「弱者の反抗」か、
どう解釈するかで見え方は全然違うんだけど
この前提の部分すら認知されてない、
入り混じってるように見えることが多い。
個人がどういうものを見てきたか、
どんな環境で生きてきたかで見え方も変わるし。
だから論争は絶えることはない。





表現者(映画製作関係者)の言葉で
「鑑賞者、もとい批評家は
 自分は作品を作ったことが無いくせに
 人の作品に文句だけは言う。
 自分は勝負の舞台に立ちもしないくせに」

っていう主張をいくつか聞いた。


で、それに対しての意見で
「野球選手がヤジを飛ばす観客に
 じゃあお前がやってみろ、っていうのは違うだろ」
「買ったものに対して不満があれば
 不満を言うことぐらいする。」
「例えばラーメン屋で食い合わせの悪い具材が出てきて
 おい店長、この食い合わせはねぇだろ!って言ったら
 じゃあお前が作れ!って言うようなもんでしょ。
 確かに作れないけど、この組み合わせが悪いことぐらいは分かる」


立場によって物事の見え方は大きく違う。
あと、推測だけど。


批評者側の意見の仕方は基本的に
「個」→「個」なんだけど

表現者側の意見の受け取り方は
「集団」→「個」なんだよな。


それだけでも膨大な悪意(に見えうる意見)を
受け取ることになるのに
中には
「監督辞めろ」「こんなの誰でも作れる」
といった 過度な言い方も含まれる。

そういう言い方されると
「自分は勝負しないくせに」
「じゃあ自分で作ってみろ」
という風な反論もしたくなる。


表現者のそういう言い分に
「いや・・・それは違うだろ」って思う人は
「面白くなかった」っていう程度の 感想に留めた
言い方しかしてなかった立場かもしれない。






僕の考え方としては
表現者側が 器量を高く持てるように
ならないといけない、と思ってる。
非難されても腹を立てないほどに。

意見を反映するわけでもないし
真に受けるわけでもないが
聞くだけは聞いといてやる。
ってぐらいの姿勢じゃないと耐えられないと思う。

あと批評者側の度が過ぎた言い方に関して
もうとやかく言うつもりはない、というか
基本 世間の人間に倫理を期待してない。
人間なんて皆勝手なこと言うもんなんだから。

僕も作品を公開する際は一応
叩かれる覚悟はしないといけないと思ってるし。

それに自分だって嫌いな漫画も芸人もいっぱい居るしな。
人に言うし、自分も言われる、って姿勢。

創作者として全然 成長の途中に位置するような
サナギのような時期の人の作品まで拾い上げて
辛辣な批評の仕方はしない。
(ネット小説とかウェブ漫画とか趣味のような作品)
ただ 広い、公の場に出すなら覚悟はしろよ、と。

批評者側、表現者側、どちらか一方にだけ肩入れして
それぞれの優位性、都合のよさだけ主張しないようにしてる。

舞台に上がる、表現者になるってのは
相応の覚悟が必要なんだと思う。
批判されて耐えられずに舞台を下りたなら
単純に 世間に負けたってこと。








少し前に 聴覚に不自由してる人の為に
映画は邦画も字幕をつけるべき、っといた論争が
断片的に目に入ってきて。

「字幕が付くと邪魔、字幕版は分けて上映して欲しい」
「そうやって差別するのか」
といった感じ。


僕が気になったのは
何故 要望を呈する側が横暴に振舞うのか?
権利を主張するのはともかくとして
謙虚な姿勢でいたらいいものを
いきなり攻撃的な言い方で意見すれば
聞き入れられる意見も通らなくなると思うけど。



「差別」っていう 倫理を武器として上げた人がいたけど。

「意図されたわけではない結果的な差別」を
「意図された差別」と 条件の繋がる部分を例に上げて
批判対象を差別者に仕立て上げる手法がある。


例えば。
黒人差別の戦い で有名な話だけど。
黒人を差別してはいけない、という法律が決まったばかりの頃
満員のバスの中で、座ってる人のうち黒人の女性が1人居て。
後から乗ってきた白人が その黒人に退くように言った。
けど、女性は意地でも座席を退かなかった。
って話。


例えば、
白人で満席になっていて、黒人が後から乗ってきて
「座らせろ」と言って 退いてもらえず
「黒人差別だ!」と言うのはわけが違う。
単純に早く乗った者が座席を確保してるだけの話。
差別問題を武器に席(権利)を得ようとするのは間違ってる。



自分に条件が適応しない話を持ち出しても
説得力に欠けるから僕自身の経験を語るけど。

高校の頃、
ある試験に合格した者の名前を
座席順に1人ずつ 呼ばれていく ってことがあって。
まぁ殆ど全員が合格してるものだったんだけど。
それぞれ名前が呼ばれた後に 皆は拍手してたんだけど
僕の時だけ誰一人も拍手しなくて。
しかもその時 変に格好つけたポーズを取ろうとしたから
恥をかいた思い出がある。

これに関して 僕の時だけ拍手をしないっていう
打ち合わせが事前にあったなら 意図した差別になるけど、
単純に個人個人が僕を嫌ってたから しなかったんだと思う。
ただの結果。
(僕だって嫌いな奴には拍手しなかったし)

 僕は高校や地元を嫌ってるけど
 この一件に関しては単純に僕の落ち度だと思ってる。


もし僕がこれを「差別だ」って言うとしたら
自分の落ち度や問題と向き合わずに
都合よく倫理の問題に挿げ替えようとすることに他ならない。






映画の話だけど。


・字幕の無い映画に 字幕を付けろ、
と言うのと

・字幕の付いてる映画に
 (聴覚が不自由な人間への配慮だと知った上で)
 字幕を外せ、

と言うのとじゃ全然わけが違う。


後者は確かに差別。
(単純に聴覚が不自由な人間の権利を度外視した意見であれば)

前者は「要望」の域を出るものではない。
製作者や表現者を「差別者」として非難するのは
自分側が「要望を呈する」というプロセスを踏まずに

「世間から悪者として叩かれる場合、変えざるを得ない」
という状況を相手にもたらす、という手段を取ろうとしてる。
・・・という風に見えるのが僕の主観。


 僕が被差別者の背景事情に
 理解が疎いだけという可能性もある。




この論争の元を辿ってみれば、
「聲の形(こえのかたち)」っていう映画について

「耳の不自由な人を大きく取り扱った内容の映画なのに、
 字幕が付けられてない、ってのはおかしい」
って話だった。

あぁ、それは確かに変な話やな。
と純粋に思った。






僕は基本 表現者側に肩入れするけど。
僕自身が表現者としての知名度は矮小なものだから。
権利を武器に非難される、ってのが大きな攻撃に見えてしまう。
どう見えるかというと



イメージ的に

趣味で作った小説を、クラスメイト向けに展示したら
普段関わりの無い 目の不自由な生徒も読めるように
点字版も作成しろ、と強要されるような。
本人、もしくはその友達、もしくは先生といった有力者に。

そうなると反感を持つ。
「何故そいつのためにそんなことを
 自分がしなきゃいけないんだ」と。

反感から その対象への嫌悪感が増すこともある。

倫理を武器に命令するよりも前に
まず お願いする、とか
もしくは有志達がその点字版を作成するか
読み聞かせしてやるとか、先に努力すべき。

表現者や創作者が あらゆる境遇の人間にまで
楽しめるように手間を割く義務は無い。







まぁ、表現をする側の立ち位置が大きなものだと
見え方は変わってくる。

全国に公開するような規模の映画となれば
色んな人間や団体の手を借りることになるから
勢作者1人だけの力、じゃない。
それに宣伝して意図して知名度を広めたりする以上
作品が面白いという保障、ってほどでもないけど
相応に 楽しませる責任が伴う。


それで広告が散々目に入ってきて、聴覚障害の人が
聴覚障害を扱った映画だと知って興味を持って、
劇場に足を運ぶと
「字幕が無いから耳が聞こえない人は楽しめませんよ」
って言われるのは そりゃないだろ って話にもなる。




まぁ それぞれの立ち位置、背景事情、によって
思想や見え方も変わる、って話。




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内 容 ニックネーム/日時
プロ野球選手であれば人気商売で芸能人のようなものなので大衆に迎合するのが当然だと思う。ロック歌手であれば、常識人が眉をひそめることでも、ファンが満足すればよいでしょう。

ブログ等で「批判者」であることで噛みついている友人がいる。この人は、相手も見て噛みついて良い相手と悪い相手を選択している。商品の不良、欠陥でも、大企業には噛みつく、裁判しても法外な慰謝料を請求できる可能性があるから。
映画の話でもメジャーな映画には噛みつくが、マイナーなものは無視する。それは、噛みついて相手の反応が期待通りか否かによる。

正義を手にすれば、なんでも許されると考える人がいる。「愛国無罪」と同様。世の中を善と悪の二元論で見ると、自分が善の側とみて相手が悪であれば、怪獣をやっつけるウルトラマンのように正義のこぶしを振り上げる。

ノブレス・オブリージュという言葉がある。一般的に地位の高い人には責任が伴うことを指す。国会議員は地位が高いので高い倫理観が要求されるが、その辺のおやじは倫理観が低くてもよいということ。
あじさい
2017/03/05 20:49
表現者になりたいというのは、どのような理由なのでしょうか。拍手喝さいを受けたい人もいれば、自己実現で他の評価を気にしない人もいます。芸能人であれば、人気商売ですから評価が気になるでしょう。他人に何と言われようとも、これだけは発言したいという人もいれば、同意、賛同者を求める人もいる。
私の場合は、他人を傷つけないのであれば自分の本心を発言して自分の心の整理をするのが目的であったりします。
差別される側とする側では、お互い寄りかかっている関係(依存)があることが多いと思います。俺は俺、他人は他人と割り切るのも有効な時もあります。
あじさい
2017/03/10 23:40
ノブリス・オブリージュという言葉は勉強になりました。

表現者になりたい理由は 思想を伝えたい、理解されたいとか。このブログ書いてるのもそうだけど。漫画描いたりするときその内容もこのブログに書いてるようなことをストーリーに仕立ててキャラクターに喋らせるような内容で作ってるし。
当然ブログより漫画の方が人に興味を持たれやすい。

あと 社会に属することに人一倍嫌悪感があるので。でも普通の人は属さないと生きていけない。 なんらかの形で注目を浴びてる人間、作品や演技といった形で評価される人なら きっちりどこかに属さなくても生きていける印象がある。
おっさん
2017/03/12 04:37

サラリーマンが忘年会で踊っているCMがあったが、私も画一的なサラリーマンになりたくない。もう少し自発的に生きたいと思う。個性を発揮して生きることは、普通にするより困難であることは確か。テレビのタレントだって、努力して厳しい競争を勝ち抜いている知性も品位もあると思う。バカなふりをしているが、お笑いタレントも、テレビに出ている人は偉い人が多そうである。
あじさい
2017/03/13 20:36

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